若いころ、自分の死というものに直面したことが幾度となくあった。
それらはどれも、はっきりしたイメージで映像をむすび、僕の心の奥に刻まれている。
初めての経験は、高校行事の全校男子10kmマラソン大会だ。
1年生の時に入賞し、壇上で表彰をされたということがあり、今年も獲ってやろう! と決めていた。
大会当日、両親は出張か旅行かなんかで不在で、祖母が来てくれていた。
寝坊だったか何だったか、理由は忘れたが、僕は朝食を食べずに学校に行った。
マラソン大会では最初から上位グループに位置を取り、食らいついていった。
前年の表彰が6位までだったということがあり、必死で6位をキープしていた。ラスト3kmくらいから、野球部のIくんが張り付いてきた。
並走の自転車が僕の位置まで上がってきた。僕はその自転車の、生物の先生が大嫌いだった。
その理由については話が逸れるので割愛。
ともかくそのアホが、俺のすぐナナメ前から、俺に顔を向け「頑張れ!」などと言いはじめた。スパート掛けたらぶつかる距離だ。それにてめえはチャリ乗ってるだけだろうが。「邪魔だ! どけ!!」と怒鳴ってやった。そいつはすごすごと離れていった。
そこから残り1km、必死で走った。
当時のマラソン大会は、給水所などない。最初から最後まで、砂利道をただ走った。
そして松林を抜け、学校のグラウンド。いよいよ最後のトラック一周だ。
ゴールまで残り50m。トラックの最後のRの途中で、走りながらへなへなと崩れ、意識を失った。
僕は夢を見ていた。
柔道部顧問の教師にいじめられる夢だった。
何度も倒され、押さえつけられた。そして周囲を囲んだ同級生たちが、苦しむ僕を見て笑っていた。
それは、あがいてもあがいても、強い力で後ろ頭を押さえつけてくる、水責めのような苦しみだった。
いくら頑張っても、顔を上げられそうにない。
相手は柔道家のM先生だ。歯が立たない。
そう考えた僕は、抵抗を一切やめ、死んだふりをする作戦に出た。
動かなくなった僕を見て、M先生や同級生たちが笑っていた。
しかし、しばらくして、徐々に心配をし始めた。
「おい、大丈夫か!」
「しっかりしろ~!」
後悔の念をにじませた、悲しそうな声だった。
さっきまで俺をさんざんいたぶって喜んでいたやつらが、何言ってやがる。いい気味だ。
顔を上げなきゃ息ができない! という苦境、苦しみが嘘のように消え、体が急に楽になった。
それどころか、気持ち良くなりはじめ、しまいには過去に経験ないほどの多幸感に到達していった。
周囲の同級生たちがあまりにも悲しそうにわめいているので、ちょっとその憎たらしい顔を見てやろうかと思い、僕は薄目を開けた。
「先生、ごうが動いた!!」
「おい! しっかりしろ!」
やばいやばい。やつらの目は俺の顔に集中していた。
あぶなく意識があることがバレるところだった。バレたらまた地獄行きだ。
周囲はずっと僕の名前を呼んでいる。
あれ? なんかおかしいぞ?
ここで僕は、正気に戻った。
今日はマラソン大会だったんだ。
目を開け、体を起こそうとすると、M先生が「動くな!」と僕の体を押さえつけた。
あとから聞いたのだが、僕はずっと意識のない状態で暴れていたのだそうだ。
それを柔道のM先生が押さえ込んでいた、ということだった。
僕は僕を囲んで、心配そうな顔をしている同級生たちの顔をゆっくり見た。
その中には、最後まで僕と順位争いをしていた、野球部のIもいた。
保健委員が僕に、砂糖漬けのレモンと、甘い紅茶を持ってきてくれた。
僕は同級生たちに上半身を支えられ、それを口に入れた。
落ち着きを取り戻した僕は、自分が倒れた経緯を聞いた。
もちろんIに負けていた。僕はアンデルセンのように倒れたと言われたが、アンデルセンがわからなかった。
倒れた僕を先生がおぶって、ゴールラインは超えたのだそうだ。
その学校では、マラソン大会を休んだやつ、走り切れなかったやつは、後日10km走るというルールがあった。
僕は隔週で『10km走る。雨が降って先生とジャンケンして勝てば古典落語のレコードを聴ける』という授業(変な学校だ)を取っていたので、別にゴールしたことでほっとしたとかいうことはなかった。
僕は、自分の順位を訊いた。
M先生が優しい目で「26位だったよ」と教えてくれた。
その瞬間、僕は激しく震えだし、全身が棒のように伸びて、ぶっ倒れた。
初めての全身けいれんだ。
意識がまたとんだ。
僕は暗いトンネルの中、自分の意志とは関係なく、浮かびながらしばらく進んでいた。
出口を示す小さな光が見え、ぐんぐん近づいてきた。2mほど浮かんで飛ぶ僕の周囲に、青い蝶がたくさんいた。
トンネルを抜けると、一面の花畑だった。
そこでは、先ほどの辛さや多幸感といったものはなく、ただ、自分の眼前にきれいな花畑が広がってるなあと、認識しただけだった。
絵にかいたような臨死体験だった。
僕は同級生たちの呼び声で、再び目を覚ました。
「I。おれ、死ぬかもしれんわ。今、花畑いってきた」
「死ぬなんて言うなよ~!!」
Iが涙をぼろぼろと流しながら言った。
僕が寝かされた柔道場の窓の外では、まだマラソン大会は続いていた。
ワーワーキャーキャーと、歓声が聞こえた。
けいれんの余韻であまり言うことをきかなくなった体。
ゆっくり自分の指を見ると、鶏の足のように、皮と骨だけになっていた。
「たぶん死ぬわ」
Iと一緒に、僕も涙を流していた。
俺が死んでも、せかいは変わらず、ずーっと続いていくんだね。
そして俺のことなんか忘れてしまうんだね。
死にたくない、なんて思ったことは、それまで一度もなかった。
車に轢かれそうな子どもを助けて身代わりで死ぬとか、そんな死に対するあこがれさえあった。
しかしその時、僕は初めて、自分にとって、自分の死が自分にもたらすものが何なのか知った。
俺抜きで何も変わらず続いていく、日々を生き続ける者たちへの、素直な嫉妬だった。
口は「今までありがとうな」「元気でな」と動いていたが、心の奥底には「いいよなおまえら」という気持ちしかなかった。
最後の最後に、ひとの人生との比較かい。
そんなちっぽけ過ぎる自分が憐れで、また泣けた。
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冒頭の冷凍魚の動画。
あんなのを見ると、生と死の境界ってどこなんだろうなって、考えこんじゃいます。
ちなみにこうして蘇生した魚は、冷凍されたことで細胞が壊れているため、すぐに死ぬそうです。