閉塞感、ない人っていないと思うんだけど、どうだろな。
俺は50年生きてる。まあ、
1か月後は見える。
3か月後も見える。
半年後も見える。
大して変わってない。ていうか、何も変わってないだろうなと思う。
でもまあ、ある日突然、なんかあったりするかもしれない。
例えば、ベタだけど、交通事故に遭う。そんで、脚がなくなったりしたりね。
脚で済めばいいけど、顔がつぶれたりしてな。
いや、これわからんよね。
だって世界のどこかで、毎日そんなことはあるわけでして。
明日自分がそうなってないとは言えんわけで。
仮に、そういうの怖いから、なんもしないよ。
家でhuluやら見て過ごすから大丈夫、なんもおこらんよ。
なんて考えていたとしても、わからんよ。
突然、脳溢血がきたり、ハデにつまづいて、机の角に目玉ぶつけて失明したりとか。
まあ、そんなのも人生のイベントだから、まあ、楽しんで乗り越えていけばいいと思うけど。
そんなもん、どうにかなると思うし。
けど、閉塞感ってのは、そういうのとはまた別の思考で生み出されるもの。
1年後、自分はどうなってるんだろうなぁ、とか、
5年後、10年後、どうなってるんだろうなあとか。
もうなんか、このちっちゃなハート、もたねえわ。
なんて思ってか、自殺しちゃう人もいるよね。
30年ほど前、とある人との出会いがありました。
そのひとは、言いました。
ケモノの心を持てと。
ケモノは常に今を生きている。
「ケモノは“明日食うものがないかもしれないからどうしよう”なんて悩まねえっち」。
どうにかなる。
まあ、どうにかなるのはどうにかなるだろ。
死なない限り、まあ、どうにか生きてるだろ。
人生、他人にあげたつもりで、他人事のように??
なんてえのかな? 死んだ自分が、まだ生きてる自分を客観視するようにとらえて、なんかやらせたらいいよね。
自分は「こういう者になろう」なんて考えると、「めんどくせえわ」「なれねえわ」とか、ネガティブな自分が出てきちゃうけど、他人のことなら、いろいろ「こうすりゃういいのに」「きっとコイツ、こういうふうにやったら成功するよ」「こんな才能あるよ」「17歳で自殺しちゃったのか、もったいない! 17なら、なんだってできるのに!!」なんて、すごい楽しい、前向きなアイディアがガンガン出てくる。
特に他人の子とかね。
だから、ここでちょっと考えたらいいのかなとか思った。
考え方、捉え方を変える。
『自分の人生を誰かにあげちゃう。』
そしてその誰かが自分ってオチ。
シンプルだよね。ひとさまのことなんて。ひとさまの商売のこと、ひとさまの子育てのこと、ひとさまの金銭感覚のこと、価値観のこと~、とかとか。
ひとさまのことは軽くあーだこーだ言えるよね。
ひとさまのことだから適当に言ってんだろって言われたら、そんなことねえわって思うよね。
その自信を、自分に向けてみるとか、
無責任じゃないわけだし、アリなんじゃねえかなと。